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今回、3回目にご登場頂きます四谷勲さんは、昭和5年生まれで支那事変〜大東亜戦争の時代を小学生から旧制中学生として生きてこられた方です。今年50年の節目"金婚式"を迎えられる御歳74歳のスリムな体型を若い頃から維持されている元気一杯の四谷さんのご自宅にてインタビューをさせて頂きました。ご自宅は昔に"とみの屋"という旅館をご購入され、一部改装されていますが古き良き木造りが特徴の味わいのある趣きで、昭和初期へタイムスリップした錯覚にとらわれました。 |
…それでは、小学校時代の想い出をお聞かせ下さい。 |
| 『卒業してから、もう60年以上になるからね。はっきり言ってそんなに何もかも覚えている訳じゃない。』 |
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-そう前置きされてから、ゆっくりと語り始めて下さいました。 |
『1・2年生の頃は木造校舎で担任は北川先生。この人は、伊丹在住の方でした。3年生の時は、駒井先生。4・5・6年生の高学年は鉄筋の校舎で担任は、岸本政雄先生でした。この方は氷上郡石生のご出身で当時20代半ばだったですな。しかし、この先生は、怖かったですよ。〈今もご健在で時々同窓会をされるそうです〉とにかく当時は時代背景からしてシビアな時代ですから体罰は当たり前。出来の悪いガキは、体に言い聞かせるのが一番判らせ易い。私より一回り年上の岸本先生は、とにかくいつも悪ガキを叩きまくってました。とくに竹の芯で叩かれると涙モノやったな。当然たんこぶがあっという間に出来て家に帰って親にバレる訳ですわ。しかし、親は可哀相になんて言うこともなく、"叩かれるんはお前に目を掛けてくれているということだ"といとも簡単に言い放ち笑いとばしていましたね。』〈怖かった先生の事は、何歳になっても忘れないものです〉
『当時、1学年5クラスで1クラス40人程度の生徒数。1組2組3組が男子クラスで1組は、早生まれの人ばかりのクラスでした。4組5組は女子クラス。女子との交流はあまりなかった様に記憶しています。男尊女卑の時代やったかもしれません。男は校庭に出ては"馬のり"って言ったか何人かずつでチームを作り1人が背中を壁につけて立ちその股に頭をつっ込み、またその後の股に次のメンバーが頭をつっ込み土台をつくるんですわ。その上に他のチームのメンバーが土台をつぶす様に馬飛びの要領で乗ってくるやつです。土台がつぶれたら負けです。他には"じらいや"?やったか呼び名をよく覚えてませんが8色位の毛糸のヒモを短く切って輪をつくり、その輪の色で強い弱いがあって、チーム戦で捕らえられたメンバーを助けに行くという様な人取りゲームを20人位でよくやってました。他に遊びなんて何もなかった。でも、そんな素朴な遊びを通して友達が一杯出来てたし、色んな地区(小花・小戸・久代・加茂・火打・出在家・滝山・萩原など)の連中が集まってた学校やったから、今でも何処何処の誰それで通じるんや。私やと"小花の四谷くん"とかな。今もどの町行ってもたくさんの知り合いがおってそれが今となっては良かったなあと思う。川小は、当時、川西で唯一の小学校やったからな。小学校時代のことはそれ位しか覚えてないな。』 |
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いやいや結構色々と覚えていられる遊びの部分は、体が覚えている感じが致しました。 |
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…旧制中学時代が最も戦火の激しい時期ではなかったのですか。
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『小学校のネタはつきてしもうたんで、中学生の時の話を少しさせてもらいます。学校に軍から配属将校さんが週一度やってきて、キョウレンを受けさせられてました。"点呼""整列""分裂行進"など日本軍の一員なんだというイメージの強要かな。当時は当たり前のようにやってました。また、校庭に軍が木枠を運んで人の胸のあたりにわらを貼って、そこへむかって竹やりをつく練習もさせられました。B29が頭上をしょっ中飛びかってたな。ショウイダンが池田五月山の方に落とされた時は変な話やけど斜面を掛け落ちる火の玉がキレイに見えたんです。不謹慎やと思わんといてや。私らも防空壕に逃げて必死な時もあったんやからな。』〈戦没者のご冥福をお祈り致します〉
『私が小学校2年の時やったかなあ。父はもともと大阪発動機(現:ダイハツ)に勤めとってんけど昭和13年に篠山の連隊に配属され大阪港から支那へ戦争に行きました。当時の箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)に母と兄弟一緒に乗り大阪から市電に乗って見送りに行ったのを覚えてます。父は2年後無事に日本へ戻って参りました。よかったです。戦後、ズックぐつは配給制でした。うちは祖母が大正13年からはきものやを始めておって、その関係で配給のくつを伊丹まで自転車に乗ってよく取りに行ったものです。木炭バスが呉服橋の川沿いを走っている頃のことです。阪急の川西能勢口駅が当時は"能勢口"国鉄の川西池田駅が当時は"池田駅"と呼ばれていた頃。黒っぽい襟つきの学生服みたいなん着て世の中も親も近所も軍国主義一辺倒の暗い時代やった。それでも、能勢口駅から南を見ても北を見ても田んぼしかなかったから南は久代・加茂まで、北は火打・出在家までスカッと見晴らしの良かったこと、よう忘れません。この当時は能勢口周辺は料亭・旅館・商店街もたくさんあって飲食店やカフェなんかも繁盛してましたように覚えてます。今はこうやって元気に商売さしてもらえてる。感謝せなあかんなあ。先祖に。それと、高度成長時代を生きたわしらの世代にもやなあ(笑)』
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能勢商店街には、千代の家・吉田家・まさの家・富の家などの料亭また橋詰商店街・新町商店街・本町商店街など当時から商売の栄んなにぎやかな川西!これからもますます活気あふれる"Kawanishi"へと進化していくことを期待して、インタビューを終了させて頂きます。 〈インタビュー:T〉 |