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今回、4回目にご登場頂きます中島賢之助さんは、昭和2年生まれで川西市商工会の副会長をされていました。中島さんは、剣道をされていた有段者で、現在も若々しい体型を維持されています。今回は、中島さんに戦時中の貴重なお話を伺うことが出来ました。 |
…小学校時代のエピソードをお聞かせ下さい。 |
| 『小学校時代の頃を思い出すと、戦争のことばかり思い出します。』 |
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-そう言われてから、ゆっくりと語り始めて下さいました。 |
『昭和10年に川西小学校に入学した時の校長先生で祝已之松校長先生という方がおられたんですが、厳格な方であったと記憶しています。今の校舎はもう面影がなくなっているが、昭和4年に鉄筋の3階建ての校舎が建ち私たちはそこで勉強をしていました。当時、校舎の近くに柳の大木があり、その近くの2階建ての古い校舎のことをみんな柳の校舎と呼んでいました。少し傾いててぼろぼろの校舎でした。柳の校舎には幽霊が出ると噂されるほど古かったんです。柳の校舎での思い出で一番記憶にあるのが、柳の校舎の横に伊丹につづく地道がありそこに樹齢百年くらいの椋の大木が4本あって現存しています。その椋の木に出来る木の実をよく食べていました。授業と授業の間の15分間の休憩時間になると椋の木に走っていき、木に登りよく木の実を食べていましたよ。椋の木の実は10月頃が旬で、どんぐりぐらいの大きさで少し紫がかっていて甘みがあるんです。当時は戦時中で砂糖等の甘味の少ない時代でしたので、それを夢中で食べていて15分間の休憩時間が過ぎても食べていたので、授業に遅刻してよく先生に怒られてげんこつをもらいましたよ。』
『昭和11年に浅野三吉という方が町長になられたのですが、当時、川西小学校に東講堂がありその1階建ての古い講堂があったんですが、浅野町長はその古い講堂を新しくしようと全町民、全校生に呼びかけて1銭貯金を始めることを提案されました。当時、1銭でドングリアメが2個買えて、1銭焼きという食べ物もありましたよ。その1銭貯金を始めて昭和13年に新しい講堂が完成しました。当時の県知事が出席して、盛大な祝賀会が催しされたことが記憶に残っています。立派な木造の2階建てでしたよ。』
『学校の校庭には当時、二宮金次郎の銅像や楠木正成が馬にまたがっている銅像がありました。あと、奉安殿もありましたよ。奉安殿に毎朝、遥拝させられていましたよ。それらも終戦の時に全て撤去されてしまいましたが。校庭の東側に、明治、大正、昭和に戦死された方々の忠魂碑が建っていましたが、占領政策によって、土の中に埋められていました。その後、発起人有志により、現在の霞ヶ丘公園に再建されて当時のことがしのばれます。』
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椋の木の実の話や1銭貯金など、貴重な話を聞かせて頂きました。 |
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…学校行事の思い出などをお聞かせ下さい。
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『昭和12年7月7日頃に支那事変がはじまり、13年に学校で担任の野路寿夫先生が戦死されたのを、全校生に発表され涙したのを覚えています。他の先生方も召集されて16日間南京にむけて、戦闘をしながら飲まず食わずで歩き続けたという話を聞きました。小学生の時の思い出は旅行や学芸会などの楽しい思い出はほとんどなく、やはり戦争の思い出ばかりです。しかし、6年生の時に伊勢神宮をお参りさせて頂きました。3年前に伊勢神宮に行ったとき、6年生の時に行き、泊まった麻野旅館という旅館が今もありましたよ。この6年生の時の旅行は楽しくて今でも鮮明に覚えています。9時消灯だったんですけどなかなか眠れなくて、枕投げをしたりしましたよ。当時の枕はそばがらやもみがらが入った枕でした。それを投げ合い、先生に見つかって5、6人風呂の中に押し込められて朝方まで怒られた記憶があります。』
『昭和16年12月8日に真珠湾攻撃があり、その後、日本の敗戦が濃厚になってきた頃、ちょうど特攻攻撃にかわりだした頃です。祝校長が全校生徒を校庭に集め、これから1時間したら川西出身の赤嶺等さんが沖縄に特攻に行くと言われて空を見ていると、郷土に別れをつげるため五月山方面より零戦が低空で飛来してきて校庭の真上を3〜4回旋回し両翼を左右に振って、お別れの挨拶をしてそのまま特攻として沖縄へ突撃されました。赤嶺等さんに手を振ったことを覚えています。低空飛行をしていたので姿もはっきりと見えましたよ。一昨年に沖縄に行ったんですが、その時、沖縄平和記念公園に行ったんです。沖縄平和記念公園には沖縄戦で亡くなった国内外の20万人余りの戦没者の名前が国別、県別に刻まれている「平和の礎」がありその中に川西市出身の赤嶺等さんの名前がありましたよ。名前を見たときは当時を思い出して胸にせまるものがありました。』
『私が小学生の頃は今の能勢口の前は全て田んぼでしたよ。ジャスコがある辺りは、いちじく畑でした。帰り道にはよく牛車に乗せてもらい帰りましたよ。しかし牛車は乗り心地が悪くて歩いて帰った方がましでしたけどね。
』
旧制中学時代は蒸気機関車の便数も少なく、中学校へよく自転車で通学しました。今みたいに舗装した道路ではなく、地道で約3時間位かかりました。そのころの鍛錬により丈夫な体が出来たのではないでしょうか。
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戦時中の貴重な話を聞かせて頂きありがとうございました。これでインタビューを終了させて頂きます。 〈インタビュー:T〉 |