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司会 まず、学校へかよわれるときの服装はどんなものでしたでしょう。
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-洋服などはもちろんなかったので着物でした。自分の家で織った縞の着物です。
-祝祭日などの式の日には、ごく一部の人だけ長袖の紋付の着物を着ていましたが、普通の日は短い袖の着物でした。
-高等科になると袴をはきましたが、これも家で織った布でつくったものです。女は緑色か、あづき色でした。
司会 帽子はどうでしたか。
-着ている人もありましたが自由でした。色は黒で、形は今のものとあまり変わりありませんでした。
-冬には寒さよけに、ほおかぶりをして通った人もいました。
司会 履物はどんなものを使っておられたでしょう。
-全部家でつくったワラ草履でした。指のあたる前鼻緒に布をまいてつくった…。
司会 カバンはなかったでしょうが、持ち物はどうでしたか。
-みんな風呂敷に包んで持っていました。
-女は手で持ちましたが、男は体に巻き付けている人が多かったようです。
-石坂も登校の時持っていきました。
司会 石坂とはどんな物ですか。
-だいたい縦五寸(約二十センチメエートル)横七寸(約二十五センチメートル)程度の黒い石でつくった瓦状のもので、今使っている白墨より堅い石筆で書く、いわば小さな黒板です。
-石坂はのちに紙に変わりましたが、書いては消し、消しては書ける便利なものでした。
-消すのに使ったものは、布を丸く巻いてつくってありました。
司会 お昼のご飯はどうしてましたか。
-弁当を持って行きました。弁当箱は柳行李か木でつくったものでした。
-おかずにはめざしが多かったことを覚えています。
| 司会 学校でいろんな教科があったでしょうが、そのころどんな科目がありましたか。 |
-尋常科では修身・国語・算術・書き方・唱歌・体操で高等科になると、そこへ歴史・地理・理科が加わりました。
-習字の練習には草紙といって、切った新聞紙を綴ったものを使っていました。
-唱歌には小さなものでしたがオルガンはありました。
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| 司会 校舎の形とか位置など、その付近の様子をお聞かせ下さい。 |
-摂津鉄道の終点が呉服橋付近にあったころ、今の形でいうと辻の踏切(川小南西角の国鉄踏切)から運動場の中央あたりを横切って、幼稚園(川小の北東)の方へ通じていましたので、道路もそれに沿っていました。
-校舎は線路の北側にありました。南の校門を入ると両側に二教室ずつの校舎があって、北の突き当たりに一段高く職員室とその西端に小教室(校務員室)があったように記憶しています。
-二年生までそこで勉強しましたが、三年生のとき校舎の建替えがあって、三年生と四年生は全部加茂の学校まで通ったことがありました。建替ってからはコの字に形に六教室あったように思いますが…。役場が道路をへだてて校門の反対側に北向きに建っていました。
-南の校門を入ると両側の校舎と南面した校舎がコの字形にならんでいました。南に面した校舎の中央が二階建で、二階を講堂に使っていました。その両側は廊下でつづいていた平家建の教室になっていました。
-そのころの職員室は道路沿いで、運動場の北東にありました。その付近に柳の木があって、中央二階建の前に大きなユーカリの木もありました。
司会 二階にあった講堂は永らく使っていたのでしょうか。
-明治の末には国鉄の線路が現在と同じようになっていたので、その線路を背にして東向きの別棟が建ちまいたが、それまでは教室の間じきりを取りはずして二教室を講堂に代用した時代もあった記憶があります。
昭和十三年に新しい講堂ができる以前、明治四十四年に建築された講堂です。役場の位置はそのままで、道路の反対側にありました。
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(明治44年7月講堂落成当時の小学校)
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| 司会 学校の行き帰りの道での思い出や見聞きされた事で記憶があればお聞かせ下さい。 |
-久代からは、途中の下加茂にわずかな家があるだけでした。北に向かって学校へいくのですから、冬の北風は大変な寒さでした。夏には大水が出て(前川が栄根付近まであふれて、下加茂へ流れ込んだ)下加茂を通るときはヒザまでつかったし、水量の多いときは学校へいけませんでした。
-小戸からかよっていましたが、そのころの今の鶴之荘と北田の石屋(川西座の北)の間は森でした。その森にタカボーズ(タヌキ)が出るといって大変こわかったもんです。
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(明治37年頃の児童と先生)
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-満願寺からかよっている人もいたが、当時は道も悪く随分困ったことがあったと思います。
司会 そのころどんな遊びがありましたか。
-女は、マリつき・糸取り・縄とびなどをして遊びました。
-男はタル(酒などを入れる木製の器物)の輪(タルの周囲に巻いた竹製の輪)を回して遊びました。輪を回すのに、藪で切った竹の先を二つに開いたものを使いましたが、それはのちに針金にかわりました。
-バイ回し・ベッタン・タコあげなどもありました。
-みかん作りがさかんだったころ、木から落ちた小さなみかんを拾って来て、干して売った金を小遣いに使ったことがあります。何かの薬になるとかで買いに回っていた商人がいました。
-藪の竹が伸びて落ちた竹の皮を拾って売ったことがあります。これも買い集めに回る人がありました。 |
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