今年川西市は、市制50周年を迎える記念の年にあたります。e-kawanishiホームページでは、市制50周年を記念して、「川西小学校物語」と題し川西小学校の歴史を辿りながら、様々な角度から川西の昔の姿をお届けしてまいります!
 川西小学校は、126年の古い歴史を持ち、川西の中でも最も歴史の古い小学校のうちの一つです。学校の創立からの歴史を辿りながら、その歴史と共に変化してきた地域の様子や、川西小学校の出来事等を、「創立百周年記念誌 川西小学校百年のあゆみ」 に基づきお届けしてまいります!また「小学校懐かしの想い出」のコーナーでは、川西の小学校を卒業されたOBの皆様に、インタビューにて小学校時代の想い出を語って頂いています!
 川西に生まれ育ち地元をよく知る方も、川西へ新しく越してこられた方も、また、故郷川西を離れ、全国各地でご活躍されている皆さんも、懐かしい小学校時代を振り返りながら川西昔物語をご覧下さい!

 大正元年天皇の世代がかわって、年号が大正と改まった 。この時代は日本の近代史上における大きな曲がり角であった。政党勢力が増大する一方、財界も金融資本家が政局を左右し得るだけの力を備えてきていた。それに加えて陸海軍の軍備拡張政策がからみ、いっそう複雑なものとなった頃、第一次世界大戦をむかえたのである。
 第一次世界大戦が勃発すると、軍国主義のドイツ軍に対抗する連合軍に味方した日本は、連合軍のデモクラシーに賛成しなければならなかった。ヨーロッパから帰国した東京大学吉野作造教授や、京都大学河上肇教授らが、日本の政治経済の現状ををヨーロッパの先進国と対比して考察し、デモクラシーを政治改革の型で提出した。民主主義の波は若いインテリの心をとらえ、世論もこの方向にむかって進み、旧秩序からの解放と改造、そして新社会の建設という新しい課題を与えて社会主義思想が大衆の間に広まった。

地域の発展とともに
 現在の阪急鉄道である、箕面有馬電気軌道は、明治43年に、能勢電気軌道は、大正2年にそれぞれ川西村を貫くように開通した。こうした交通機関の発達とともに、大正の時代には、国・県道の改良が行われ、物資の流通が活発になって川西村はしだいに町としての様相をあらわしてきた。
  川西村では大正13年2月15日の村議会で、村を町に改めることを議題として提出し、同日それを全会一致で可決した。それにもとづいて、翌大正14年10月1日、戸数2,140戸、人口9,800人の川西町が誕生した。
 3日間の祝賀会も上天気で川西町の将来の多幸を思わせたのだった。

大正時代の川西の出来事
 鶴之荘住宅地のはじまり
 大正のはじめ、川西村において住宅地が経営されたのは画期的なできごとであり、川西村の発展に大きな役割を果たした。大正3年7月20日発行のパンフレット「鶴之荘」によると、総面積4万坪(13万2,000平方m)に縦横数条の大道小路を設け、一区割りおよそ200坪(6,600平方m)の宅地を百数十区に分けた住宅地で、売り出しの価格は、一坪9円から15円程度だった。清い空気、適当な気温、美しい水などの利点を揚げて売り出された。

住宅地経営の先駆、鶴之荘住宅地
 小花川原から飛行機離陸
 「小花の川原から飛行機が飛ぶ」飛行機が珍しい存在であった当時としてはまったく夢のような話であり、一目見ようと数万の観衆が押し寄せた。
 民間飛行家福永朝吉氏は、その出身地である川西の地を選び、大正7年8月11日小花川原から豊中グランド間の往復飛行を計画。曇ってはいたが絶好の飛行日和であった。
 当日未明から複葉トラクター式45馬力の組み立てを行い、観衆の拍手と万歳に送られ、花火を合図に8時40分南方に向かって70m滑走後離陸した。川西村と池田町上空を2回旋回したのち高度300mを豊中に向かって飛行したのである。豊中の着陸地点では数名の旗手を配置して合図にあたった。8時55分北隅の松林上空に機影をあらわし、東に半円形をえがいて急角度に着陸しようとしたが、着陸場がせまく成功しなかったので、西方から南に旋回して再度着陸を試みた。しかし機首部を地上に打ちつけて転覆し、その壮挙は実現しなかったが、機体の損傷にとどまり、福永氏に負傷がなかったのは幸いであった。

社会教育面の充実

 明治45年4月1日、川西尋常高等小学校に初めて裁縫学校が設立された。明治後期から大正時代におけるめざましい女子教育の発展により、川西村でも裁縫学校を設けてその教育に力を注いだものといえる。
 また大正9年9月30日、小学校を卒業して職業に従事している者や就職しようとする者に対し職業に必要な知識技能を与えるとともに、国民生活に肝要な教育を施すことを目的に、川西村に農商補修学校が誕生した。

大正9年の裁縫学校生徒
男子部は前期2年後期3年研究科3年の8カ年、女子部は前後期各2年の4カ年を修業年限とすることを原則としている。つまり義務教育終了後徴兵適齢までの未成年者を訓育し、小学校教育の効果を全うして軍隊教育に結びつける一種の国民教育であった。
 川西村農商補修学校における教科は男子の場合、修身・国語・数学・農業・商業・理科・法制経済・体操で、女子は修身・国語・数学・家事・裁縫・手芸・点茶・農業・商業・体操であったが、農業と商業は本人の希望によって、そのうち一科目を選べることになっていた。地域の実状によって科目内容を異にしていた補修学校において、当時農業が大部分を占め一部商業地帯であった川西村が、農業と商業科を主とする農商補修学校を設置し、各専門の教師を導入して教育にあたったのは当然の傾向であった。

施設・設備の充実
 昭和に入り、町の発展に伴う児童数の増加により新校舎の建設が計画され、建築費8万6,225円をかけ昭和3年12月26日に鉄筋校舎が完成した。当時としては画期的な建築でその偉風は川西町の誇りでもあった。昭和3年の川西町の予算が27万9,744円からみても学校建築に対する関心のほどがうかがえる。

 また演壇以外総て赤レンガ敷きの大正10年につくられた講堂は、昭和10年をすぎた頃、収容人員600人のこの講堂では、式を3回にわけなければならない状態にまで児童が増加していたため、「われらの講堂はわれらの力で」と川西全町民ががっちりと固いスクラムを組み、児童は小遣いを節約し、主婦は台所の出費を倹約するなどし、人口1万3,720人のうち幼児と赤ん坊を除いた8,672人が、昭和12年4月1日から翌年3月末までに2万5,000円の募金を目標に一日一銭の貯金をはじめた。そして昭和13年9月収容人員2,400人のスマートな白亜の殿堂を表し全町民の念願はついに実を結んだのである。


昭和3年に新築した鉄筋校舎

昭和13年、町民の熱意で完成した新講堂

 
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