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空襲の激化と防空壕の構築
昭和17年4月17日初めて東京が米軍機の空襲を受けた。その後米軍のミッドウェー・フィリピン上陸・南洋諸島奪回につづくサイパン島の米軍基地化などにより、本土への空襲が日増しに激化した。このころ校庭の中央付近やや南寄りに、教職員と高等科男生徒を動員して、一週間がかりで高さ1.3メートル横2メートル縦5メートルの防空壕が数基構築された。防空壕内面には、鉄筋本館と東木造二階建校舎との延焼をしゃ断するために取り壊した木造が利用され、天井は盛り土砂で固められた。この一つに非常持出重要書類を全部格納した。保管にあたってはじゅうぶん考慮されたが、雨水によって破損はまぬがれなかったものもあった。
空襲がますます激化するにしたがい、校庭では危機感があったので、猪名川堤防の竹藪に大規模な防空壕を構築したが、完成と同時に終戦となり使用されなかった。
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