今年川西市は、市制50周年を迎える記念の年にあたります。e-kawanishiホームページでは、市制50周年を記念して、「川西小学校物語」と題し川西小学校の歴史を辿りながら、様々な角度から川西の昔の姿をお届けしてまいります!
 川西小学校は、126年の古い歴史を持ち、川西の中でも最も歴史の古い小学校のうちの一つです。学校の創立からの歴史を辿りながら、その歴史と共に変化してきた地域の様子や、川西小学校の出来事等を、「創立百周年記念誌 川西小学校百年のあゆみ」 に基づきお届けしてまいります!また「小学校懐かしの想い出」のコーナーでは、川西の小学校を卒業されたOBの皆様に、インタビューにて小学校時代の想い出を語って頂いています!
 川西に生まれ育ち地元をよく知る方も、川西へ新しく越してこられた方も、また、故郷川西を離れ、全国各地でご活躍されている皆さんも、懐かしい小学校時代を振り返りながら川西昔物語をご覧下さい!

軍国主義教育への布石
  昭和6年9月18日夜、奉天北方で突如支那兵が満鉄線路を爆破した事件に端を発し、満州事件がぼっ発した。これに関連して、上海方面においても日支両軍の衝突があり、陸海軍の出動がいよいよ激しくなった。国際連盟理事会において、わが国は13対1の反対決議を受けて苦境に立ち、昭和8年2月ついに脱退を通告して孤立状態となったのである。
  昭和11年2月26日、いわゆる二・二六事件がおこった翌年には、戦火は日支事件に拡大して軍部の主導権が確立していった。それにともない、昭和13年には国家総動員法が発令され、言論・思想・教育などすべてに厳しい統制が実施されることになった。この年の9月30日、大日本国防婦人会川西分会が戦線の将兵が使用する毛布を献納した記録が残っている。

毎月一日の朔日朝礼
 昭和9年5月1日から、毎月1日は朔日朝礼として特別の朝礼がおこなわれた。学級旗を先頭に全員が運動場に整列し、国旗を掲揚して校旗を迎え、君が代斉唱につづいて宮城を遙拝したあと、必勝祈願と英霊の冥福を祈る黙とうを捧げた。校長がおこなう全員閲童のあと、学級旗を先頭にした分列行進には、校長が朝礼台の上から挙手の礼で答えた。
  朔日朝礼の児童は、厳寒でも体操シャツにパンツ姿で靴下ははけなかった。運動靴でない底の薄いスッポン足袋で冷気が身にしみたが、「兵隊さんのことを思え」の一語につきた。


(校庭で行われた朔日朝礼)

国民学校の発足
 昭和16年に国民学校令が公布され、4月1日から川西国民学校と改称されて、明治初年から70年間つづいた小学校の名称が消えたのである。国民学校令では、その第一条に「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トスル」とし、初等科6年間と高等科2年間にわかれた。国民学校は、教育上たんに親の子を教えるのではなく、天皇陛下の赤子、すなわち御国の子どもとして教育する「皇国を扶翼し奉る皇国民の錬成」の場であり、教育勅語を遵守する皇国民育成の教育であった。
 わが国の教育は、その国体に則り、肇国の精神にもとづくものであり、個人主義の唱える自我の実現や人格の完成というたんなる個人の発展完成のみを目的とするものとはまったくその本質を異にするものである。要するに国家を離れたたんなる個人主義能力の開発ではなく、わが国体の道を具現実践するところの国民としての教育である。そうした考え方にもとづいて、大正時代からさかんになっていた自由教育を打破し、教育勅語を基本にした国体の本義を、教師に再教育して日々の教育に導入されたのである。

教職員報国挺身隊の結成
 昭和16年8月文部省は、「学校報国団体制確立ニ関スル」訓令をだしている。その編成要領は大要次のようであった。報国隊は校長を中心として教職員・学生・生徒が一体となって、指揮系統の確立したものでなくてはならない。各級隊長は統率力のある者を任命しなければならないことを規定し、学校長を隊長として大隊・中隊・小隊・分隊など、軍隊そっくりの組織を整えることになっている。この学校報国隊が、防空演習・勤労奉仕作業・その他学校行事などの諸活動にあたるとしている。


(多田神社前の教職員報国挺身隊

激しい空襲下の学校
 昭和20年に入って以降、B29爆撃機の編隊は昼夜の別なく来襲するようになった。3月13日から一週間つづいた大空襲により、大阪・神戸をはじめ阪神間はほとんど焦土と化し、黒煙天をこがすありさまは、本校鉄筋校舎の屋上からながめることができた。4月には米軍が沖縄本島に上陸し、日本軍は全滅した。それ以後はB29爆撃機と併行して航空母艦から発進するグラマン戦闘機による機銃掃射が激しくなり、児童の登下校が憂慮された。川西町では大阪機工への爆弾投下をはじめ、火打(霞ヶ丘)や小戸などで機銃掃射による死傷者がでた。

防空ずきんを着用しての登下校
 全校児童は防空ずきんを肩に、服の胸には住所・氏名を書いた名札を縫いつけ、女子はモンペ姿で登下校した。警戒警報発令中は登校が停止され、授業中に警報が発令された場合は直ちに防空ずきんを着用して運動場に集合し、班旗を先頭に教師と上級生の誘導で駆足で帰宅した。6月以降は毎日が空襲警報の発令で正規の授業はほとんどない状態が続いた。


(頭に防空ずきん
胸に名札をつけた子どもたち)

空襲の激化と防空壕の構築
 昭和17年4月17日初めて東京が米軍機の空襲を受けた。その後米軍のミッドウェー・フィリピン上陸・南洋諸島奪回につづくサイパン島の米軍基地化などにより、本土への空襲が日増しに激化した。このころ校庭の中央付近やや南寄りに、教職員と高等科男生徒を動員して、一週間がかりで高さ1.3メートル横2メートル縦5メートルの防空壕が数基構築された。防空壕内面には、鉄筋本館と東木造二階建校舎との延焼をしゃ断するために取り壊した木造が利用され、天井は盛り土砂で固められた。この一つに非常持出重要書類を全部格納した。保管にあたってはじゅうぶん考慮されたが、雨水によって破損はまぬがれなかったものもあった。
 空襲がますます激化するにしたがい、校庭では危機感があったので、猪名川堤防の竹藪に大規模な防空壕を構築したが、完成と同時に終戦となり使用されなかった。


(構築される防空壕)

運動会や卒業旅行の中止
 食糧増産にともなう農地としての使用や防空壕の構築によって運動場がなくなり、外での体操も不可能であった。こうしたことから秋の運動会はもちろんできなかった。昭和18年度の卒業旅行は、交通事情の悪化により日帰りで姫路城を見学したが、19年度からの旅行は中止をよぎなくされた。

終戦の日
 昭和20年4月1日米軍の陸海軍が空軍の援護を得て沖縄本島に上陸を開始し、新鋭兵器による猛攻撃を受けて死闘した日本軍は、多大の犠牲を残して壊滅した。B29による連日の本土爆撃に全国の主要都市はほとんど焦土と化した。8月6日には広島に、8月9日には長崎に初の原子爆弾が投下され、その被害は言語に絶するものがあった。一方、8月8日ソ連は日本に対して宣戦を布告して満州北部に突入した。
 そうした状況下で、8月15日正午、天皇陛下はラジオを通じて終戦の詔書を全国民に放送せられ、第二次世界大戦は全国で150にのぼる都市が被災し、30万〜50万にのぼる一般市民の死亡者をだし、日本の無条件降服によってその幕を閉じた。
 昭和7年10月7日奉天における戦死を最初に、第二次世界大戦終結までの期間における川西市域の英霊は、軍人686名、軍属31名計717名に達している。



 
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