今年川西市は、市制50周年を迎える記念の年にあたります。e-kawanishiホームページでは、市制50周年を記念して、「川西小学校物語」と題し川西小学校の歴史を辿りながら、様々な角度から川西の昔の姿をお届けしてまいります!
 川西小学校は、126年の古い歴史を持ち、川西の中でも最も歴史の古い小学校のうちの一つです。学校の創立からの歴史を辿りながら、その歴史と共に変化してきた地域の様子や、川西小学校の出来事等を、「創立百周年記念誌 川西小学校百年のあゆみ」 に基づきお届けしてまいります!また「小学校懐かしの想い出」のコーナーでは、川西の小学校を卒業されたOBの皆様に、インタビューにて小学校時代の想い出を語って頂いています!
 川西に生まれ育ち地元をよく知る方も、川西へ新しく越してこられた方も、また、故郷川西を離れ、全国各地でご活躍されている皆さんも、懐かしい小学校時代を振り返りながら川西昔物語をご覧下さい!


終戦直後の本校の規模
 敗戦の色もしだいに薄らいだ昭和30年はじめごろから、学校施設の充実化が図られ、本校でも後述するような新築や増改築がおこなわれた。終戦の2年後にあたる昭和22年7月当時の測量によると、校地総面積4230坪余り(13970平方メートル余り)に、講堂・鉄筋校舎・東木造校舎・南木造校舎・柳校舎などを主体とする1318坪余り(4350平方メートル余り)の建物があり、約千坪(約3300平方メートル)の教材園と、約1914坪(約6316平方メートル)の運動場のあったことが知られる。
東校舎(木造2階建)の改築
 
東校舎といえば、大正時代末期から昭和初期に在学していた者には「ああ、あの木造2階建て校舎か」となつかしく思いだせる校舎である。南の運動場側が広い廊下になっていて、2階には危険を防ぐために角材で囲いがしてあった。いかにも学校らしいどっしりとした建物で、低学年と中学校の教室になっていた。この校舎は、大正8年に増築が認可されて大正14年5月に上棟式をおこなった建物である。戦時中、火災による延焼を防止するため、西側に隣接する鉄筋校舎との接続部を取り壊して間隔をあけ、校舎北側の講堂へ通じる通路に使用していた。
 この校舎は危険校舎として、昭和31年1月10日から取り壊しを開始している。大正14年に新築して以来のことであり、耐用年数からみてもさほど老朽化していたとは考えられない。在籍児童数が増加して、教室数が不足してきたことも原因のひとつではないかと推測される。いずれにせよ、この校舎の取り壊しは27万円で落札した。これは取り壊しのための手間賃を古材売却費から差し引いた金額であった。


(木造の旧東校舎)

改築中の仮住まい
 この校舎の取り壊しによる教室の減少をおぎなうため、運動場の南側にあった木造2階建の、川西高等学校(定時制)の教室を借用することになり、昭和31年12月25日から、冬休み期間中をつかってその改造工事を施工した。
 翌年1月9日、第3学期の始業式の翌日、児童用机・腰掛などを移動して、新校舎ができあがるまでの仮住まいが始まった。昼間は小学校、夜間は高等学校の教室としての使用で、高等学校に迷惑をかけ、小学校側も何かと不自由な日々であった。それでもなお教室が不足していたので、鉄筋校舎1階にあった校長室・事務室・理科室・理科準備室を改造して、これを普通教室3教室として使用していたのである。
工事現場のボヤ騒ぎ
 現在ある東校舎は、2期に分けて改築工事が施工された。第1期工事は1階の西端(現在校務員室)の1教室・その上にある2階の2教室・3階の2教室の5教室であった。
 昭和31年1月24日にこの工事の入札があり、890万円で施工することになった。工事関係者が宿泊したり、材料を集積するための小屋が、運動場の東側に建てられた。
 校務員の小浜久馬司氏(この校務員は、東の空があけだすと学校へきて、リヤカーを押して校舎の外まわりを清掃していた。学校の清潔に勤めた陰の功労者である)が早朝学校へ来て、小屋から煙のあがっているのを見つけ、寝ていた関係者たちをおこして燃え上がっている火を消しとめ、大事にいたらなかったこともあった。


(改築工事中の東校舎)

創立80周年と校舎の落成
 丸太を組んで足場をつくり、鉄筋を組んだ枠にコンクリートミキサーでこねたセメントをねこ車で運んで流し込むといった工法で、現在と比較して手間のかかる仕事であった。
 昭和32年1月公費890万円で着工した第1期改築工事は、176坪(582平方メートル)に普通教室5室つくり同年8月に完成したが、その後普通教室4室と校務員室および宿直室に用途変更した。
 第2期改築工事は、昭和32年10月総工費1490万円で、普通教室9室と講堂への渡り廊下および便所など325坪(1074平方メートル)を着工し、翌33年3月に完成した。4月5日の落成式は快晴にめぐまれて盛大であった。この年は創立80周年にあたる記念すべき年であり、この改築完成によって、昭和3年に建築された鉄筋本館の東側に新しい鉄筋3階建校舎が連なったのである。
 新築された東校舎は教室のスペースも広く、窓も大きくとった明るく快適な教室である。そのうえ廊下はモルタル塗で手洗場付近にゆとりがあり、便所は水洗式を採用した建築であった。
 卒業を間近にひかえた6年生と5年生がおもに使用していた。下級生は早く大きくなって、あの校舎で勉強したいとあこがれていたものである。ただ、使用した木材がじゅうぶん乾燥していなかったせいか、ひずみを生じ、戸の開閉ができなくなるという苦情も出てきた。また水洗便所の配管が厳寒期になると凍結して破裂し、水びたしになるという事故もあった。


(完成した東校舎)

待望のプール開き
 多額の費用を必要とするプール建設は、36年7月から1家庭月額100円ずつ寄附を得て、これを積み立てて基金とすることを決め、早速実行に移した。この工事には大きな土木機械が導入されて土掘り作業から工事が開始された。掘っても掘っても、粘土や石はほとんどなく、砂に近い土が堀り取られ、まわりに高く積み上げられた。掘った後、鉄筋が組まれ、コンクリートが流し込まれた。6月の暑い日ざしの下で上塗り工事がおこなわれていった。
 つづいて、問題になったのはプールに注水する水であった。猪名川から引いてくるのでは遠すぎるし汚染されている。ちょうど講堂の西側に、水は干上がっているが古井戸があった。この井戸を水脈の個所まで掘り下げて使用することになった。井戸掘りの作業が進められ、地下水が湧出してきた。しかしプールを満水にするには大量の水が必要である。付近の民家の井戸水が枯れないように(当時まだ上水道がなく、専ら井戸水が使用されていた)留意しながらいく日もかかって注水した。
 待望のプール建設は育友会の浄財300万円を基に、工費415万円で25メートル7コースが旧鉄筋本館北西に誕生し、昭和37年7月21日プール開きをおこなった。
 プール入口には、それよりさき学校へ寄贈されていた飛行機の木製プロペラが展示をかねて飾られ、小笠原市長がプールに鯉を放ち、児童は歓声をあげながら鯉のつかみ取りをして祝福した。


(待望のプール開き)

やっと残った柳の木
 大阪国際空港に離着陸する航空機による騒音対策として、川西市南部の小・中学校は新設はもとより既設校においても防音工事がおこなわれ、川西小学校の歴史あるモダンな講堂もこの対象として建てかえ、新しく体育館を建設することとなった。
 体育館建設にあたって、その位置決定まで紆余曲折を重ねた。はじめ建設が予定された位置の北限は、前面にある北校舎の位置より南に離れた計画であった。これは中庭を広くとり、少しでも児童の学習や遊びに役立つようにとの配慮でもあった。しかしここに問題が生じた。それは北側にある人家にともなう日照権問題で、計画より南寄りに建設するべきだとするものである。一方、南北に長い講堂が東西に長い体育館にかわるため、その建設位置を校舎に接近させて南へ寄せると、講堂西側にある成長した柳の木の所在が問題になった。多くのPTA役員の協力のもとに再三にわたって地元住民の方々と折衝し、夜の会合は市教育委員会もまじえて話し合ったが困難をきわめた。
 川西小学校は柳がシンボルであり、校歌にもうたわれている。南運動場にあるシンボルの老木は、いつ倒れるかわからないといった心配があった。たまたま講堂西側に植樹されていた柳が相当大きく伸長しており、老木が倒れたとしてもこの柳が第2世としてふさわしいのではないかということで、何が何でもこの柳は切りたくない、残すべきだと学校と保護者の意見が一致し、昭和32年4月5日交渉の結果、体育館の建設位置が現在の場所に決定したのである。
 思えばこの柳の木が、体育館の南下による校舎との間隔を少なくすることをくいとめたといっても過言ではなかろう。工事期間を通じて工事関係者の柳に対するいたわりと配慮は心あたたまるものがあった。体育館南側の柳はいま元気に育っている。よりいっそうの成長を祈ってやまない。
体育館の建設すすむ
 
体育館の建設位置は決定した。基礎の掘り割り作業は10月27日に開始され、多くの建設資材が毎日のように運ばれてきた。11月9日には、鉄筋組み立て工事がはじまり、11月20日には生コン搬入が開始された。幾台ものミキサー車が東門を続々と往来した。12月28日から翌年1月6日までは工事を休み、校内は久しぶりに静けさをとりもどしたが、その後着々と工事が進められ、寒さ厳しい2月終わりにはほとんど完工にこぎつけていた。6年生は体育館でのはじめての卒業式に胸の高鳴りを覚えていた。
設備も新たに体育館落成
 
昭和47年3月20日卒業式を前にして体育館は落成した。建物の2階を体育館として、1階は中央廊下をはさんで北側には図書室2室・会議室、南側には家庭科室(準備室つき)・保健室が配置された。低学年用・高学年用と分けられた図書室は、米花康次氏寄贈による大量の児童図書でいっそうに充実をみせた。
 家庭科教室は、学習・指導両面から考慮して多角的に設計され、完成当時は近隣校からの参観も多かった。
 体育館には換気装置を完備し、放送室を設け各種放送に役立つよう設計された。各窓には二重暗幕・防災カーテンを備え、ステージには校章もあざやかな緞帳と舞台幕一式、前には防球ネットを備えている。室内体育に必要なつり棒・つり縄・サージャントメジャーなどをはじめ、背面には鏡もとりつけられた。床板にはバレー・ポートボールなどのために線引きされているなど、新しい設備の体育館が誕生した。
 昭和47年3月23日、46年度卒業生は晴れてこの体育館において最初の卒業式を挙行したのであった。


(多くの人々の協力で残った体育館南側の柳)
 
(落成した体育館)

新しい学制のもとに
  昭和22年4月、小学校から国民学校にかわった小学校は、このとき再び小学校と改称され、これと期を同じくして1町村1校の新制中学校が建設された。すなわち、川西町・多田町・東谷町にそれぞれ町村立の中学校が誕生したのである。これにともない川西中学校は、短期間ではあったが川西小学校の北校舎で仮住まいののち、小戸字大塚(松が丘町1版号)へ移転した。
川西市の誕生
 
昭和29年8月1日町村合併催促法にもとづいて、川西町・多田村・東谷村の1町2村が合併して兵庫県下18番目の新市として発足した。誕生した新市は、東西6.5キロメートル、南北15キロメートルの南北に細長い地形で、総面積53.75平方キロメートルである。合併当時の住民登録は、7533世帯、33798人であった。
地域の発展と学校の増加
 
都心を離れた山なみと澄んだ空気に加え、大阪・神戸などにも近い地の利を得て、昭和30年ごろから南部に住宅が急増し、40年ごろからは北部丘陵地帯に大規模な団地開発が次々とおこなわれ、阪神間のベッドタウンとしての様相をしめしはじめた。これにともなう人工の急増は目を見はるものがあり、市域一体は農山村から一転して住宅都市に急変したのである。
 川西市は市制施行以来、教育文化の振興を市政三大目標のひとつとしてかかげた。学力の向上と体力の増強を目標に、年々急増する児童生徒に対応する小中学校校舎の新改築とあわせ、体育館やプールの建設をおこない、その環境づくりが休みなくつづけられている。


 
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