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やっと残った柳の木
大阪国際空港に離着陸する航空機による騒音対策として、川西市南部の小・中学校は新設はもとより既設校においても防音工事がおこなわれ、川西小学校の歴史あるモダンな講堂もこの対象として建てかえ、新しく体育館を建設することとなった。
体育館建設にあたって、その位置決定まで紆余曲折を重ねた。はじめ建設が予定された位置の北限は、前面にある北校舎の位置より南に離れた計画であった。これは中庭を広くとり、少しでも児童の学習や遊びに役立つようにとの配慮でもあった。しかしここに問題が生じた。それは北側にある人家にともなう日照権問題で、計画より南寄りに建設するべきだとするものである。一方、南北に長い講堂が東西に長い体育館にかわるため、その建設位置を校舎に接近させて南へ寄せると、講堂西側にある成長した柳の木の所在が問題になった。多くのPTA役員の協力のもとに再三にわたって地元住民の方々と折衝し、夜の会合は市教育委員会もまじえて話し合ったが困難をきわめた。
川西小学校は柳がシンボルであり、校歌にもうたわれている。南運動場にあるシンボルの老木は、いつ倒れるかわからないといった心配があった。たまたま講堂西側に植樹されていた柳が相当大きく伸長しており、老木が倒れたとしてもこの柳が第2世としてふさわしいのではないかということで、何が何でもこの柳は切りたくない、残すべきだと学校と保護者の意見が一致し、昭和32年4月5日交渉の結果、体育館の建設位置が現在の場所に決定したのである。
思えばこの柳の木が、体育館の南下による校舎との間隔を少なくすることをくいとめたといっても過言ではなかろう。工事期間を通じて工事関係者の柳に対するいたわりと配慮は心あたたまるものがあった。体育館南側の柳はいま元気に育っている。よりいっそうの成長を祈ってやまない。
体育館の建設すすむ
体育館の建設位置は決定した。基礎の掘り割り作業は10月27日に開始され、多くの建設資材が毎日のように運ばれてきた。11月9日には、鉄筋組み立て工事がはじまり、11月20日には生コン搬入が開始された。幾台ものミキサー車が東門を続々と往来した。12月28日から翌年1月6日までは工事を休み、校内は久しぶりに静けさをとりもどしたが、その後着々と工事が進められ、寒さ厳しい2月終わりにはほとんど完工にこぎつけていた。6年生は体育館でのはじめての卒業式に胸の高鳴りを覚えていた。
設備も新たに体育館落成
昭和47年3月20日卒業式を前にして体育館は落成した。建物の2階を体育館として、1階は中央廊下をはさんで北側には図書室2室・会議室、南側には家庭科室(準備室つき)・保健室が配置された。低学年用・高学年用と分けられた図書室は、米花康次氏寄贈による大量の児童図書でいっそうに充実をみせた。
家庭科教室は、学習・指導両面から考慮して多角的に設計され、完成当時は近隣校からの参観も多かった。
体育館には換気装置を完備し、放送室を設け各種放送に役立つよう設計された。各窓には二重暗幕・防災カーテンを備え、ステージには校章もあざやかな緞帳と舞台幕一式、前には防球ネットを備えている。室内体育に必要なつり棒・つり縄・サージャントメジャーなどをはじめ、背面には鏡もとりつけられた。床板にはバレー・ポートボールなどのために線引きされているなど、新しい設備の体育館が誕生した。
昭和47年3月23日、46年度卒業生は晴れてこの体育館において最初の卒業式を挙行したのであった。
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(多くの人々の協力で残った体育館南側の柳)
(落成した体育館)
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