故あって「株式会社いろは商店」を長兄に代り専務取締役として入社し、後、父より代表取締役として継承しました。川西市内に三店舗、池田市内に二店舗、豊中市内(喫茶レストラン)に一店舗を持つ食料品・洋食材料品を取り扱う営業を展開していました。そう言う関係上、池田商工会議所の商業市場部会に所属した会員であり、川西市商工会では商業部会の所属でありました。生まれ故郷の川西市に力を入れ故里を愛する気持ちが学生時代からあり、商工会では青年部の発起人の一人となり縁あって理事推薦により理事として迎えられ、商業部会長となりました。その折に川西青年会議所の設立発起人となり奉仕活動にも力を入れました。(後、日本青年会議所拡大委員長となり全国に50余Lomの誕生に関与する事になる)その思いは「この町に生まれ、この町に育ち、この町で生きて行き、やがては骨を埋めるであろう自分を考えた時」誰よりもこの町を愛し、良くしたいと言う気概が大きく働き、昭和48年、当時36歳より高度成長期と合い間って川西市商工会と共に長い道のりを歩む事になろうとはつゆ知らず、45歳で副会長、49歳で会長に就任(会長職は14年のロングラン)と、一線を引くまで63歳の27年間を川西市の発展、振興に経済・産業の面は言うにおよばず街づくりに努めてきました。隣接する先輩都市に負けてなるものかと持分のリーダーシップで乗り切った思い出が懐かしく北摂の商業経済圏を握る事に当時は夢馳せていました。その間、小売商業調整特別措置法、大規模小売店舗法、スーパー、コンビニの出店調整、川西阪急百貨店出店、パルティ、アステ、モザイク・ボックス、京都書院と紀伊国屋書店と市内書店組合との調整、商店連盟(阪急百貨物店出店反対同盟委員会)との調整、ベル・フローラの出店調整と地元既存商業者の振興育成と経営者への対応策並びに融資など大きくは駅前再開発事業と阪急高架事業・福知山線複線化事業、商工会館・経済交流センター建設、市内2つのマンション(シャンテとジョイン)駅前再開発対応の駐車場確保等の問題、調整と建設等の数々の手伝って来た苦労は今となっては「良き男のロマンであり挑戦」であったことが懐かしくも感じております。
現在は商工会の顧問(相談役)として時折商工会に顔を出しスタッフを激励、啓蒙、アドバイスしたり職員の精励と激励に訪問することを楽しみにしています。
商業担当役員の広芝氏、射場氏と共に苦労した商調協、川西市にスーパー・マーケット、コンビニが出店ラッシュを迎えた昭和60年代は特に商店連盟の阪急百貨店出店反対同盟等々との調整と話し合いの日々に明け暮れた苦労が記憶に残っております。また、駅舎が西へ170メーター移動に伴う周辺三商店会の対応や救済施設など、特に再開発場所の権利者並びに市内既存業者等の問題解決に毎日のように必死に駆けずり回った事、とくに地所権利者、商業者との一年余に渉る交渉には大変難航し十数回の説明会のある時、一人の、ある権利者の方から質問、意見を問われ、それに答えた事がドラマとスリルある記憶として未だに鮮明に残っています。1+1=3。2-1=2の数値を使ってそれに説明を加えたことを覚えています。つまり権利者と周辺商業者もリスクを負いたくない気持ち、同じく行政側も再開発事業によって街機能を良くし、環境整備をしたい気持ち、両者の利害得失をカバーする為に3になる様に国・県・市の施策、助成、補助金等による手当て、救済がうまく生かされた行政手腕と首長のこの種の理解と政治手腕がきっとプラス1に繋がり3になるんだと信じれば良いのでは?又、利害得失両者つまり二者権利者と行政側が互いに反発し合ってマイナス1を引き合いに出しても理解が得られないのであれば街全体の発展と市民の生活環境の事を考えればマイナス要素であるこの数式を2にすればよいのではないかと、実は市民全体がそれを望んでいる事を知らなければ駄目なのでは、とプラス思考を披露したところ、これが効をそうして前進できたことが大変良かったと今思います。これが引いては近未来における川西市の成熟都市に向けての第一歩になると言い切った勇気ある行動に出た自分をいまだに冷や汗ものだったと感じています。
それは川西市の民度を高め、近隣都市を追い越すことによって皆さんも市民も共有の利がそこにあるのだと!当時の市長さん、行政側もこの説明会を機に権利者の方々も理解へと傾いたのでした。そして市長さん初め行政担当者にも商業振興策と対応に既存業者並びに地権者の対応に力を入れて頂きたいとの要望を申し入れたことも忘れないで承諾していただいた事でした。嬉しかったですね。
川西駅前再開発に絡み、阪急電鉄及び能勢電鉄の川西能勢口のホーム位置を当時より西へ170メーター移動する計画が進行中でありました。当然、駅周辺の商店街、市場、個人商店等の経営者、地主、店舗所有者、借家人などの方々は駅が西へ移る事により顧客が減少、また資産価値が下がるという不安、心配がありました。故に市場の立替構想など又、三商店会団結統合による対策協議会の発足など、商工会の立場で支援することも重要な事業であり市内にある各商店会、市場商人会の対応にも追われ続け多忙な時期でもありました。百貨店誘致には次の様なエピソードがあります。1D・2S(ジャスコ・西友)構想の下、どの百貨店が良いのか?行政の方から訪ねられ相談に来られた事がありました。(当時流通業界に市は精通してなかった様です)そこで情報を提供した経緯がありましたが、最終的には在阪百貨店協会を通じて最終的に検討の結果、阪急宝塚線にはやはり沿線住民、市民の馴染みと、当時阪急ブレーブスの守護神(多田神社)の縁など、阪急電鉄に高架事業も絡み阪急グループの地域貢献度から最終的には電鉄と地域住民との関係において阪急百貨店に行政側が決められた経緯がありました。一時は池田市の丸池中央青果市場の移転先後の跡に大丸百貨店が来ると言う話もありました。それと同時期前に能勢電鉄が池田市の西本町を通って池田駅につながると言う話も実際にありました事等知らない人も多くおられるでしょう。結局、大丸百貨店はJR大阪駅に増築改装事業に併せて、その駅舎ビルに出店され、池田市を断念された経緯があります。川西市としては当然1D・2Sを核とする駅前構想にあわせTEMPO175の店舗の張付けに、内容に一番気を遣いました。テナント・リーディングに関して集客力と都市型商業圏の経済効率と魅力あるショッピングづくり、経営者の積極的な販売戦略の資質など、さらに地元業者の選定については、これからのビジネスに対する前向きな開拓型の若手経営者など、また他には周辺近隣都市で伸びているショッピング経営力のある新進気鋭のマネージメントに長けた経営者、ブランド物を扱う知名度のある有名店などの配分のもとに選択をさせて頂いた事が印象に残っています。いずれにしても地元業者を噛み合わせることによる既存商業者へチャンスの道をつけたことでした。ここに川西阪急とTEMPO175の商業圏核としての一つのコアが誕生したのであります。これらのかわにしドリームは実は新しい新住民が緑ゆたかな住宅環境を求めに来られた反面、文化・芸術・教育と言う、民度の高い生活文化と利便性意識的に要望していらした一つの願があった事も事実でした。モザイクボックスに当時としては紀伊国屋、エディ・バウァー・MVHの有名店を張付け、こんなローカルな都市にも経済効率の演出ができるんだ!そうして衛生郊外型都市として川西市の名を格上げし、北摂の経済圏としての優位性を創るんだという気概があった事は確かでした。心残りは未完成のビジョン設定でありました。それは花屋敷に通じる丘陵地にロスのビバリ・ヒルズとはいかないまでもオシャレな建物によるフランス料理店、美容院、エアロビックス、エステ・サロン等を実現させたい夢に伴せホテルも造りたいと夢を持っていましたが任期2年を残し勇退させていただきました。本当に皆様にお世話になり有難う御座いました。
川西市商工会 顧問(相談役)
モリPECE総合研究事務所 主宰
池田中央産業株式会社 取締役(会長)
関西学院同窓会 川西支部長(評議員)
J-COM放送審議委員(川西・宝塚・三田・猪名川)
川西・猪名川食品衛生協会顧問
川西ロータリークラブ会員
国際青年会議所セネター会員
元兵庫県商工会連合会副会長
黄綬褒章受章 平成9年春(通商産業省)
兵庫県功労章受章(商工・産業振興)平成2年
川西市功労章受章(教育行政振興)平成5年
防犯栄誉金章受章(警察庁長官表彰)平成9年 |